エッセイ,  技術的なこと,  音楽

合唱コンクールに思う、技術を身に着ける順番についての考察

合唱コンクールにて応援している人がダメだったので、「まぁ、きっと、そういうことだろうなぁ」と思いながら雑感。←ちゃんと本番を聴きもしないで説得力が全くないw…だけど、昔、自分がそうだったから。

 

しばらく真面目に合唱コンクールは聴きに行ってません。

 

生徒の頑張りももちろんではあるのですが、指導者の力・意識が露骨に影響を与えている&部員の人数もだいぶ影響しているという…あまりフェアじゃない状況で順位が付けられる状況下で、それで生徒たちが一喜一憂するという場面があまり好きになれず。

 

…正直、大人になってみていると、子ども達の一生懸命さが逆にちょっと苦しいな…と思え。

 

審査基準とは何か?

昔、私が指導に関わったり指揮で関わったりした場合、評価がだいぶわかれてました。

おそらく私と発声の基礎作りについての優先順位が近いであろう審査員の評価は高く、そうでない人からは微妙というのがだいたいのパターン。

 

…でも、評価が分かれるというのは何も合唱だけの話でもなく…。

 

演劇の審査も、かなり審査員の「好み」で評価が分かれます。…どんなに会場(主に若者が多い)がウケていても、審査員は「早くて何言っているのかわからない」とか「意味がわからない(若者の文化で使用されているモノの名前がわからない…)」とかで全然評価しなかったりします(←お耳が若干遠くなっていらっしゃる場合も…)。

 

インターネットひとつ、平成生まれの人にとってはもう物心ついた時からある当然のものですが、昭和40年代以前生まれの人には疎い人は普通にいます。自分が若者の時代を過ぎてから普及したものには対応していなかったりするのです。なので、その世界観を題材にして描かれたお芝居に、審査員の世代「だけ」がむしろ会場に置いていかれてついていけてなかったりするという現象が起こります。

 

でも、それで審査結果は出るんですよ。
そうやってつけられてるのが「順位」で。

相手によってウケるものがあからさまに違うんですよね。

そういう、評価基準が曖昧な中で、一生懸命に指導者に従って「勝つこと」を目指している姿というのが、なんとも…指導者目線で見ると非常に複雑でして。

 

自分は若い頃、指揮、外部指導、伴奏ピアニストでコンクールに携わりました。
それなりに結果が出たこともあれば、思うようにいかないこともありました。
「評価されるもの」は、自分が技術を構築する上で優先することと必ずしも一致しませんでした。

 

信じてまっすぐ見つめる視線に対しての、己の非力感もありましたし…なんでしょうね。

演奏会は好きですが、コンクール…特に、まだまだ技術を基礎から構築している途中で臨むコンクールというのがどうも消化不良でした。

 

音色・響きに関してはいい評価をいただくことが多かった一方、「声が細い」と書かれることも同様に結構ありました。
何を優先的に求めるか?というところが人によってだいぶ違うんですよね。
審査員によって違います。むしろ、声楽家の中でも違います。

 

私は太い声を求めて声を固めるような指導はしません。また、息を多量に送り込んだ発声で一見「(大人数なら特に)迫力があるかのようにきかせる」ような声でも歌わせません。

地味に、最初は専ら声帯の振動のし始めについて・母音を鳴らすこと・子音と母音に時差をつくること…をかなりしつこくやります。

でもそういった技術構築のやり方は共通認識ではありません。世の中には色々なメソッドが存在します。
どのように技術を積み重ねていくのか。も違えば、目標とする歌声そのものが違ったりしています。

 

日本人の歌声

学生当時、合唱をやっている友人に「声楽は美しいと思わない」と言われたことがありました。…実際、当時の私も「キレイだな」と感じる声で歌っている人を日本人では殆ど見つけられず、CDは専ら外人でした(日本人もゼロではないけど)。

「違和感」がすごくて。

 

学生の頃、某所にて、オペラを勉強している人達を聴講していましたが…。
正直、当時(10年前の段階で)私が聴いていて心地いよいと感じる響きの中で歌っている人はほんのわずかでした。大学卒業した後に来ている人達の集団でしたが、クラスに1人か2人いるかいないかくらいでした。

私の耳には、殆どの人の歌声が「不自然な力みの伴う声」に感じられましたし、常にピアノよりもピッチが若干低く聴こえました。

(…まぁ、ピアニストも色々なんですが…。)

 

合唱指揮者の先生が、海外に長く滞在したあとに日本に帰ってくると、どんなに国内で上手いと言われている合唱を聴いても「気持ち悪く感じる」と言ってました。

そして、それは何も特別なことではなくて、多くの海外組が感じることのようで、先人から「その感覚を忘れなように」と言われるようです。

 

私の声楽の師はそれを「感覚だと忘れるからいかに理性と結びつけるか」ということで、何が違うのか比較しながら解説してくださいましたが、留学後帰国組の他の演奏家に「どうしてそんなに(感覚が)残ってるの?」と言われたエピソードを話してくださいました。

 

「日本人が西洋音楽の技術を身につける」という視点

日本人がビーフシチューを真似したら肉じゃがができたらしいです。

学ぶの語源は真似るですが、日本人が西洋人のみてくれをそのまま真似しても、無意識の領域にまで染み付いている日本人の習慣によって、違うものが出来上がります。

赤ワインなんて発想は無いわけです。そして、向こうには無いはずの醤油を使うわけです。

 

同じことが日本の声楽にも起こっている…ということで、師匠の指導する「日本人に適した技術を構築する順番」で私は指導をうけてきました。でも、その優先順位は教科書的に「全国共通のもの」ではありません。

なので、私が順番で組み立てているつもりであっても、一生懸命生徒たちがついてきてくれていても、全然評価されなかったりもするのです。

 

指導と評価の一体化

自分だけならいいんですよね。別に。
自分がいいと思うものを選んで、自分がその選択の責任をとって、自分がその結果を引き受けるだけなので。
でも生徒って自分で指導者選べないじゃないですか。ましてや義務教育なんて。

 

そんな中で、技術とは何か?技術を組み立てるとは何か?っていうのがそもそも曖昧な中で、3年間という限られた期間の中で競争をして、それで涙したりするというのがね…。

もおぉおぉぉぉぉぉ~~~!!!

という気持ちで、たとえ望んだ結果を得られなくても「ひしっ!!!!(抱擁)」って感じですよね。

 

人が育つのは時間がかかります。
声が育つのにだって時間がかかります。
実質2年半で…初心者もごちゃ混ぜで、歌詞のついた曲をやろうというのは…なかなか難しいです。

 

「趣味だから」「プロになるわけじゃないから」って言っちゃいますか?

ではなぜ順位をつけるのでしょうね?

 

教育の現場では「指導と評価の一体化」と言われていますが、この件において、指導と評価は全く一体化されていません。

 

それで教育的意義を持ち出すのでしょうか?
私にはわからないのです。

 

○余談として~技術水準の移り変わり

私が学生だった当時、他の声楽の指導者(ご高齢)が「女性は30を過ぎると声が衰えていく」と言ってました。その「旬」とされる時期が海外歌手のそれとだいぶズレていた点からも、その頃の日本の声楽界が技術的欠陥を抱えていたということのあらわれなのでしょう。

 

あれからおよそ10年。

爆発的に情報が国境を超えるようになり、日本人の感覚自体に大きな変化が生じてきていると思います。昔は「声が転がらない※」と嘆く人がたくさんいましたが、最近はそうでもなくなってきたような印象です。(※声が転がらないというのもまた「そもそもやっていることが違う」という技術的な原因によります。)

 

きっとこの先もどんどん変化していくのだと思います。
私は私として、自分自身を実験台にして発信していこうと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です