エッセイ,  音楽

発声法も色々です

 
「登山し始めるところは違っても、目指すところは同じ。」

って、学生の頃に先輩から聞いたんだけれども。

 

…当時思ったのは、「いや…。。。山…違うんじゃないかな??」ということ。

 

プロとして活動している方々の歌を聞いても色々。

本当に、色々。

某研修所の稽古を学生の一時期見学していたけれども、声が色々すぎてびっくりした。みんなそれぞれ違う先生に師事しているものだから、統一感が………(以下略)。

少なくとも、当時の私の耳でも「好みのプロ」と「好みではないプロ」は明確に存在していた。

 

「どんな風に歌えるようになりたいのか?」が明確じゃないと、自分が望んだ歌声の方向性には合っていないメソッドも存在するのではないかと思う。

その違いを自分の耳で聴き分けて、師事する人を自ら選ばないと。

 

日本人は良くも悪くも素直なので、「上が言うこと」を正しいと思い込みやすい。

でも、権力者がろくでもないことはよくあることなので、その思い込みは有害だと思う。

そして、「正しい」とか「間違ってる」なんていうのは勝手にある人が決めたことが殆ど。

固執するのではなしに、どこかに自分の感性が動けるような「余白」を残していられた方が生きやすい。

人は一度思い込むと自分の感性を理性で押さえつけたりするけれど、その「余白」を大切に出来れば、こじれる前に適切な行動をとれるのではないかと思う。

 

発声法をめぐっても、「やぁやぁ我こそは…」と正しさを主張する人はたくさんいる。

…けれど、その「正しさ」は絶対的に正しいことではない。

人の数だけ正解があって、どれも不正解ではきっと無いのだ。

 

ある人は、日本のスタンダードとグローバルスタンダードには乖離がみられると言う。

私もそれは感じているけれど、だからといって、日本のスタンダードが「間違っている」とまでは言わない。

だって、西洋的な耳と日本的な耳がそもそも違うので、「違う」ということを「正しい」とか「間違っている」と論じることが平和じゃないと思うので。

外国に「忍者」とかが輸入されると、日本人から見るとへんてこりんな「忍者」が、それはそれで現地の人には「なんか格好いい!!」になっていたりするのと同じで。

そこに、「お前の忍者は偽物だ―!!!」って乗り込んで行かなくても…それはそれでいいんじゃないかなと。

「俺は本物の忍者になるぜ!」と思った人は、ひたすら修行していけばいいんじゃないかなと。

 

今はなんだろう。

いろんな忍者が混在している時代なのかなと。

情報が爆発的に増えて、割合は変わってきてるのかなと感じるけれども。

 

自分で感じ取って、自分で考えて、自分で選択する…という習慣が教育の段階から不足しがちだけれども、こういった活動では特に、そういう自分の感性をもっと大切にした方がいいと思う。

「自分にしっくりくるもの」を求めて。権威だとかそういうものを一度抜きにして、自分がどうなりたいのか?を大切に。

自分の感覚を優先しないで、権威や「上の言うことが正しい」という感覚でもって師事する人を選ぶと、意図せずにへんてこな忍者の色に染まるメソッドを一生懸命やっていることもあるんじゃないかなと。…今はまだまだ混在しているので特に。

…もちろん、選ぶ段階で違いを感じないのであればそこまで拘る必要もないのだろうけれど。

 

結局、大学名とかよりも何よりも、「誰に師事したか」で大幅に変わってしまう。

「本当は現地の人みたいに歌えるようになりたかったのに、思ったようになれない。」…と嘆くのは、非常に残念なことだと思う。

 

求めているものが明確になれば俄然、身に着けるための修行もスムーズ。

自分の感覚を大切に。
 

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