間違った努力は私達を簡単に裏切る
「その音が出せるから」という理由で技術が無いのに歌ってはいけないってこないだ書きました。
「その高さの音が出る」という状態でも、それは器楽的な方法で出ているのか?叫んでいるのか?は違います。「叫べないやつには歌えない」とも言いますし、実際そうなのでしょうが、「叫んでばかりいても歌えない」のだと思います。
器楽的な扱いについてのテクニックを学ばずに「音の高さが出るから」というだけで歌っていても、いつまでも美しいフレーズで歌うことはできません。声楽において大切な空気の動きを知覚することもできないでしょう。
一生懸命やっているのに上達しない…ということになってしまいます。
私は師匠にレッスンしてもらうようになった1年目、「努力もしているし根性もあるけれど、努力の仕方を間違っている」と言われました。
今ならわかります。ものすごく遠回りしていたことを。何が大事なのかが飲み込めず、目的地はあるはずなのに、一生懸命一生懸命違う道を歩いていました。
努力の仕方を間違っていると上達は望めません。
その練習の目的は技術を習得するためになっているか?
ピアノのエチュードは、それぞれ目的が明確ですね。
今は何をしているのか?…「4番と5番の指を強化している」「トリル」「アルペジオ」など。声楽のレッスンは、普通はまず「発声」です。というか、楽器を作るところから始まるので、発声ができてからでないと「お話にならない」のです。
適切な声帯の振動の始まり方、終わり方、各母音の器楽的な響きの習得、子音…本来ならばそういう順番が存在します。
「歌の練習した~」…その練習は「何を身につけること」を目的としていますか?
聴き映えのする曲を演奏したいと思うのはピアノでも歌でも一緒なのでしょうが、なんでも基礎練習は超絶地味ですね。
でも、やはりそれが土台になります。
たまに子どもにピアノを習わせるにあたって「別にプロにするわけじゃないから」っていう親御さんがいらっしゃいますが、プロになるかどうかは本人の意志が大前提であって、そうじゃない人間が、親だろうが指導者だろうが「どうせ趣味でしょ」といってその後積み上げていくために必要な技術の基礎をしっかり身に着けさせないのは、人の可能性を潰す行為だと思います。
ピアノ教えないの?って何年か前に言われた時に、「将来プロになろうと思った時に責任持てないから教えない」って答えたら、上記のセリフと「お安く教えてくれればいいの」という言葉が返ってきて衝撃でした。
いやいやいやいやいや………。。。。。
友人で、いざ音大に進みたいとなった時に中学生から新しい先生についたら「全然ダメ」と、基礎を最初からやり直しになった子がいました。
…そういうの、あまりに酷だと思うのです。
プロとかアマチュアとか関係無しに、やはり土台が無いとしっかりと築いていくことは出来ません。
耳に痛いことを言わないのとか、一見すると「やさしそう」ですけど、全然やさしくないですよね。
「よかれと思ってのお節介」というものもありますけども、需要と供給があっていればいいのかもしれませんけども、、、……でも、私は関わる人の可能性が広がっていくような関わり方が好きです。
少なくとも、将来それを望んだときに足枷にはならない内容のレッスンでなければ、それはレッスンなのかな?と思ったりするのです。