あんまり自分ばかり言われていると、なんで!?って思ったりもするけど。
…なんだか急にタイトルのことが腑に落ちた。
大人の階段をまた一段(遅い)。
「なんであの人のことを先生が褒めるのか理解できない」とか、「なんであの人の言うことに先生が同意するのか理解出来ない」…と、周りの人が愚痴を漏らすような、ちょっと扱いが難しい人がいました。
その理由は、若かった私にも今ひとつ理解しかねて、「もっとハッキリ言ったら改善するのでは?」くらいに思ってました(人生経験不足)。
だけど、いわゆる「そういう人」の場合、そうしないとコミュニティがもたないからだったんだなぁ…とようやく理解。
…超、今さら。
・言っても無駄。
・何か決定的なダメ出しなどをしたら激昂するorその人自身が崩壊する。
・うまい具合に機嫌をみながら褒めることをメインにするしか手段がない。
・機嫌のいい時を見計らって「さらによくするには~」という程度のニュアンスでしか言えない。
・とにかく「あなたのことを認めてますよ」というメッセージを通常の数倍にしないと人間関係を維持することが出来ない。
…ということだったのかぁ…と。
全体を見ている立場として、「その人のことも含めて」なるべく穏便に済ませるための行動・処世術だったんだなぁ…と。
そう思って、色々なことを振り返ると数々の言動が繋がって。
教わる側の視点にしか立てないと気がつきにくいことも、違う視点を持つと「あぁ!」と思うことがあるものですね。
中学の時に「長」がつく立場によくなりましたが、先生に「お前は直球過ぎる。もっと変化球を投げられるように。」と言われていたのを思い出しました。
その後も変化球がなかなか投げられるようになれず、苦労しましたけども(爆)
私は小学校を4校通うくらいの転勤族家庭の育ちだったこともあり、あんまり「その集団にい続けること」を重視してません。
その人の目標が変われば所属も変わると思っていますし、変わっていいと思ってます。
場合によっては戻るという選択だってあると思ってます。
だから、「引き止めてもらいたいんだけど、試すように辞めるっていうタイプ」などに、こちらから察してあげて行動を誘導するようなことは基本的にしません。
相手がショックを受けた表情をしていようが、それはその人自身が自分の言動の責任を負うことだと思っているので。
そんなんだったから余計に、優しい人の配慮がわからなかったんだなと、今は思います。
「辞めたら辞めたでいい」…じゃないんだなと。
言ってもらえるうちは、「言っても大丈夫」という信頼があるということ。
…もちろん、「コイツには何言っても大丈夫」は信頼ではないけれど。
でも、すべての人が「言われても大丈夫」なわけではなくて、それはその人の弱さゆえであるということ。
そんな人の弱さも思ってあげられる…ということも、優しさであるのだということ。
仁に過ぐれば弱くなる…とも言いますが。
いい塩梅でありたいものですね。