娘との公園で。
秋の終わりだな~…と。
…指がガサガサ(笑)
夕方はもう寒いですね。
普段から読んでくれている方がいらっしゃるということが、温かく感じます。
人が発する言葉や文には、その人の人柄というか雰囲気みたいなものが出るものだと私は思っていて、少なくともこのブログから発するそれらが「関わりたくない」「触れたくないもの」ではないことに安心するのかもしれません。
ツイ廃(ツイッターばっかりやって廃人化している人)とか、SNSやブログの更新頻度がやたら高い人は面倒くさい奴である率が高め…と言われますが、例に漏れずきっと私も面倒くさい奴なんでしょう(笑)
継続的に読んでくれている方はおそらく、私がそこまで健康的なメンタルではないことには薄々お気づきなのではないかと思います。
今でこそある程度普通に生活をしていますが、若い頃を思い返せば、実際余裕の無い嫌な奴だったと思います(「ねばならない」思考が強くて押し付けがましい嫌な奴でしたw)。
理由は本当、度重なる転校やいじめ、その他、色々とあるのですが、なにせとても不安定な状態で子供時代を過ごしたので、自尊感情も安定していないし、自分のことも人のこともよくわからなかったし、健全な人間関係の中で育ってきた人よりも幾年か成長が遅れているところはあるんじゃないかなと感じます。
…今でも、「自分はこんな感じ」という自己イメージはそこまで安定していません。
先日、今の自分は「社会と繋がりたい」からブログを書いていると書きましたが…。
自分の思ったこと、感じたこと、自分の出来ること…をこうして書きつけることは、私にとってはそういう不安定な自分を統合していく作業のようなものでもあります。
混乱の中で育ちきれなかった自分を、自分で育て直しているような。
そして、混乱から脱した状態で、もう一度人と繋がってみたいな…と。
「自分が何を望んでいるのか」ということは、身の安全が確保されていて、自尊感情が安定していないとわからなくなってしまうものです。
不快感や恐怖心から、まずは「安全」を求めてしまうから。
自分が望んでいるつもりのものが、純粋な動機によるものではないことはなにげによくあることです。
…教育(狂育)や政治やマーケティングの手法でも、混乱・恐怖を用いて人を動かすのはよくあることですし。
あるいは、褒美によって動機づけすることもありますが。
おそらく一度もそういった、人をコントロールする類のコミュニケーションを受けたことが無い人などいないのだと思います。
「真の教育者は解放する人だ」
…と言った人がいたらしいですが、私は本当、そうだなと思っていて。
私は音楽・歌を教えることがありますが、能動的な姿勢が無い人に教えるのは好きじゃありません。
あくまでその人が「こうなりたい」というのがあった上で「手伝い」をする立場でありたくて。
それは私自身が、「お前は~~~」というコミュニケーションの数々にたくさん傷ついてきたからなのだと思います。
そして、私自身もまた、そういうコミュニケーションを当然だと思い、人をたくさん傷つけてきたことを自覚しているからなのだと思います。
「人の間」と書いて人間。
同じ人間なのに、立場やカテゴリー、様々な物差しでもって分断され、わかりあえなくなるのが嫌だな…と思ってました。
でも先日、「分断されることによって様々な感情を体験出来るから、人はあえて分断を体験しにくるのだ」と書いている人がいて、なるほどな~と思いましたが。
私も人間なので、どうしようもない感情を持て余すことがあります。
こないだもめっちゃ愚痴ってましたけど(笑)
でもなるべく、統合された感覚に気がつける生き方をしたいなと思います。
愛を持って。