マイペース教(布教活動・笑)

 

いつの間にか植え付けられた罪悪感

「貴女はいいわよね。」みたいなことを言われるの、好きですか?

「貴女には私の気持ちなんてわからない」
とか、
「私は貴女みたいにできないから」
とか。

…こういうの、罪悪感すごいんですけど。
何か出来たり、人に評価されることが悪いことであるような感覚になるんですよね。

そしてそれは逆でも。

私、小学生の頃、体育がめっちゃ苦手で、逆上がり出来なくて放課後何日も居残りしてやっとクラスで一番最後に出来るようになった人間なので、「出来ない側の人間」の惨めさもよく知っているつもりです。

 

「お前と同じチームになりたくない」
「お前なんかには負けたくない」
とかね。

苦手なもので強制的に競争させられる苦痛。
連帯責任で足を引っ張る罪悪感、無力感。
出来ないのを見世物にされるような恥辱。

…しかも任意団体じゃないので「義務」。
好きなことなら出来るようになりたいとも思いますが、そうですらない。

 

でもその不快感、出来る・出来ないということ自体が問題じゃないんですよね。
システムの問題ですよね。

なんでこんなに私たちは罪悪感を植え付けられているんでしょうね。

 

賞罰教育によって育まれる価値観

やらなければならないものが決まっていて、したくもない競争をさせられて、望んでもない評価で優劣をつけられて。

奴隷の中で「ずるい」という喧嘩が起こりやすくなる思考を刷り込まれる。

 

もっと内発的な動機でもって精神的に豊かに生きられるのに、自らを不幸にする信念を大切にして生きている人の多さ。

…今の若い人は少し変わってきているけれども。

 

「この職場はないな!」と思ったらさっさと辞める。
ということが出来ないたくさんの日本人は、自分の心身の健康を大事にするよりも先に、一体何を大事にしてるんだろう。

そして自身を粗末にして、我慢して、「みんなやってるから」と我慢を他者にも強いる思考は、一体誰を幸せにしているんだろう。

 

ニートずるい。生活保護ずるい。みんな我慢してるのに。専業主婦ずるい。身体が弱いって言い訳してる。私は努力したのに。自己責任だろ。生産性の低い人間ずるい。努力しろ。出来る奴ずるい。親が金持ちだからって。有名税なんだから我慢しろ。給料高い奴ずるい。金持ちずるい。……etc.

「私だって我慢してるのに」

 

みたいな。

互いを見張りあって、不幸な同じ信念を守ろうと誓う。

みんなやってる教。

 

なんだこれ。

 

「価値」が誰かによって最初から決められている。模範とされる行動も決められている。思想も決められている。

…そしてその「価値」を生み出すために我慢することが「みんなやってる教」という一種の宗教と化していて、その信者じゃない人間は迫害される。あるいは、その「価値」を生み出せない人間は自らに価値がないと嘆き自死を選択する。

なんて不幸な宗教!!

 

「みんなやってる教」の信者が減ったら、たぶんもっと生きやすい。
人それぞれの適正も、体質も、発達の凸凹も、もっと「当たり前」になる。
今は当たり前のことが当たり前として扱われてない。現実にそぐわないことを「こうあるべき」って強制しあっている。
その息苦しさが半端ない。

 

…とりとめもなく。

体育は出来なかったけど、音楽についてはそれなりに出来たので、「それは嫉妬だよ」と言われるような体験もぼちぼちしてきて、私は出来ても出来なくても両方とも居心地が悪いなと思っている。

何か平均値とズレていると「~すべき」と人に強いられる経験が増える。

出来てなければ「これくらいやって当然だ」と強いられる。

出来ていれば「社会的に価値のあるとされていることにアナタの人生の全てをかけて精進すべき」と、それが当然かのように期待される。

…何か、どんどん自分の中心から離れていくような気がして好きじゃなかった(から、今こうなってる)。

 

だから、マイペースでいいと思っている。

もっとみんな、マイペースでも非難されなかったら生きやすいのになと思っている。

マイペース教は一人で始められる。

さあ、マイペース教に入ろう。

教祖も神も、自分の中だ。

 

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