まずは動機。
動機ありき。
動機があってからの行動。
押し付けられたものには動機がない。
動機がないと面白くない。
…後からでも動機をつけることが出来ればいいのだけれど、頑固だとそうもいかない。
面白いからやる。
という、とってもシンプルだったことが、いつの間にかあれこれ求められるようになる。
それでも、楽しそうだったらやる。
という、シンプルなままでいたい。
なるべく。
なるべく。
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昔、正直、ピアノを習っている子が苦手だった(笑) ←ええ、偏見です。すみません。自分も習ってました。
いちいち比べてくるのがウザくて(笑)
教則本の進度とか、何を弾いただのなんだのと、いちいち比べては「私の方が!」っていうのが面倒くさかった。
当時の自分はレッスンの前に30分~1時間くらいしか練習をしない不真面目子で、ガチ勢に及ぶことなどそもそも無くて当然だったので余計にw
自分の椅子に座ってマイペースにやりたいのに、エントリーしていないはずの椅子取りゲームにいつの間にか勝手に参加させられて「お前の負けなんだよ!!」って言われる感じが非常に不愉快。
…でした。
思えば、引っ越しして先生が変わった時(小4)も、「バイエルなんて終わってて当り前です。」と言われ、それから私は「ピアノ嫌だな」と思って一度辞めたんでした(笑)→その後再開したけど。
そんなことをふと思い出して、その子達がどうしてそんなに勝ち負けを気にしていたのだろう?とふと疑問に思った今日。
そして、冒頭のことを考えていました。
…そもそも、動機が違ったのかなぁ?とも。
当時の私はコンクールの存在も知らないまったり環境で弾いてましたけど、ピアノに競技的な楽しさを感じている子もいたのかもしれません。
もしくは、「これくらい当然でしょ!」みたいにして押し付けられてストレスを感じながらも頑張っていたのかもしれません。
押し付けられて自分を見失うとイライラしますよね。
そして、同じことを人に押し付けたりして。
自分がジャッジされて、それを受け入れてジャッジで優位になるように努力して適応していたりすると、また人のこともジャッジしたりしてしまいます。
…自分もその後、いざ音楽をちゃんとやりたい!ってなってからが大変で、劣等感からだいぶ自分を見失ってましたけど…。
音大でもないくせに!みたいなの、もうお腹いっぱいです(笑)
「どこ?その大学」から、いざ指導したら「○○大学ってすごいんですね!」って言われるのとかも、なんかすっごい違和感でした(笑)←超失礼だと思うんだけど、実際こういうこと口に出す人いるんですよねw
なんだその「肩書のみ」感。
お前は肩書人間か!
親にちゃんと名前つけてもらったんじゃないの?
…と。(言わないよ。言わないけどさ。)
私は○○大学じゃなくて一人の人間ですよ。
なんか教則本の進度もそうだけど、肩書とか、「その人の外側」から内側を推察する…のはもちろんある程度の利便性はあるから完全否定はしませんが、それでわかるのは一部に過ぎないよ~って言いたい。
…のは、自分が肩書や魅力的なラベルを持っていないから!!(笑)
持ってないけどさー。
でも、子ども3人産んでも、30過ぎても、ずーっと続けてるって、たぶん相当好きじゃないと出来ないと思うのですよ。
「与えられたからやってきた」という人間ではないよなぁと思うのです。
そこにはちゃんと、内側から湧き出てくる動機が…あったんじゃないかなぁと。
エントリーしていないはずの椅子取りゲームにいつの間にか勝手に参加させられて「お前の負けなんだよ!!」って言われても、でも、勝手に自分の椅子に座って「いや、これ別に私の椅子だし。」ってどーんと腰を下ろしていたいです(笑)
おしまい。