マウンティングピアノ女子の傷つき
先日、これ↓の中で
>教則本の進度とか、何を弾いただのなんだのと、いちいち比べては「私の方が!」っていうのが面倒くさかった。
って書きました。
いわゆる「マウンティング」ってやつですね。
ピアノを習っている人にはマウンティング女子が多くて嫌だったのです。
「ピアノは女の腐ったやつがやるもんだと思っていた」と書いていたピアノの教授がいましたが、なんかわかります(爆)。
正直、人間関係が煩わしくて中学・高校は音楽関係の部活に入りませんでした(そんな私は剣道部w)。
「クラシック音楽をやっている人とかバレエをやっている人はプライドが高い人が多い」…というのは実際結構いわれることです。
クラシックの場合は楽器によっても性格傾向は違うのですが、幼少期からがっつり訓練が必要な習い事ほどその傾向が強いのかなと感じます。
ピアノ関連の掲示板とかをみているとよくわかると思うのでご興味がありますれば…。(小町とかね。すごいねあそこは。ちょっとこわい。)
…と、別にバカにしたくて書いてるわけではないんですが。
個人的な関心から心理学をかじってましたが、それから彼女らの行動を振り返ると、そこには「プライド」というよりも「傷つき」があったんだろうなぁ…って思うようになりました。
マウンティングをやたらする人としない人の違い…を探っていくと、「本人の欲求→行動」という健全な発達段階を十分に発達させられないままに「親など外部の欲求→行動」というのを強いられた過去があったりするんですよね。
「女子の人間関係」という本にも、「選ばれる側の性」として女の面倒臭さは出来上がると書いてありましたが、実際、起こるべくして起こった「傷が癒やされていない反応」というのが、プライドの高いクラシック女子(造語)にとてもよく当てはまっていると感じます。
前述の記事で、動機が先だと私は書きましたが、「良家の子女」的に生きることを求められてきて、それに必死に応えてきた彼女らにそもそもの動機があったのかは正直、謎です。
もちろん、強いられていても後から楽しさに気づいていくこともあると思いますけどね(私もダラダラやっていて途中で気づいたクチ)。
高みを目指すっていうとなんか格好いいですけど、自分の最良を目指すという自分軸ではなくて、人と比べて優位に立ちたいっていう他人軸って、根底に「人のこと見下したい」って心が隠れていたりするんですよね。
なんでそう感じるようになったのか?って紐解いていくと、だいたい劣等感が隠れていて。
「見返したい」・「見下し返したい」って、傷ついた心があって。
ハッピーじゃない人でないとそういう戦い方(他人軸の戦い方)ってそもそも出来ないんですよね。
…なんて、若い時はスルー出来るほど私も余裕じゃありませんでしたけどーw
私も「お前なんかが!」って言動に「ムキー!!ヽ(`Д´#)ノ」ってなってましたけどーw
今もたまーに思い出したりしますけどーww (。・ ω<)ゞ
勝った負けたを競うのなら
進度とか超絶技巧とかで競っていても、はたからみると実はどーでもいいんですよね。中身が無いから。
「こんなにいい道具持ってんだぜ!」って感じ。
「なにそれスゲー!」以上のことは何もないという。
その道具を使って心を動かしてなんぼなわけで。
大学3年の時、老人ホームに介護実習があって、その時にピアノを弾いたんですよ。
ちょうど実技試験が近かったから一曲だけ仕上げてあって、ガチで一曲弾いたんです。
Villa-Lobosのセレナード弾きの印象っていう曲(もう弾けない…)。
そしたら、おばあちゃんが一人、演奏の途中で突如、嗚咽するくらいの勢いで泣きはじめたたんです。
別に懐メロでもありませんし、たぶん老人ホームで知ってる人はいなかったんじゃないかな?っていう曲です。
音楽でオーガズムに達することがあるということを知ったのが大学2年でしたが(音楽が身体じゅうをめぐって、なんだかわけわからんけど涙がぽろぽろぽろぽろ出てくるという…そして、終わった後はまともに動けないみたいな感じの)、私の演奏で泣く人がいるんだー!!という…。
衝撃。
その時はなんだか嬉しさもありつつ、なんだか私も呆然としてましたけど。
…きっと、このなんともいえない切ないメロディーで何かを思い出したのでしょう。
勝った負けたを競うなら、競うより?、自分と人の心が音楽でなにがしか触れ合ったかどうかを大切にしたいです。
音楽をやっていてたまにあるこういう瞬間は、いつまでも印象深く心に残る宝物です。
…だからやめられないんだろうな~(笑)