以前ブログで稼ぐ!とかいうのもやっていたので、一応、アクセスのあげ方は知識としてはある程度知っています。
でも、このブログでは実践していません。
…アクセスをあげることを優先していると書きたいこと書けばいいってわけじゃなくなるので。
常に「人が関心を持っていること」にアンテナを張り巡らせていなければならない感じがしんどく…(苦笑)。
…よく、ネットビジネスに「楽に稼げる」みたいな謳い文句がありますが、全然楽じゃないですw
仕組みを作るまではそれなりに大変です。
自動化した後は楽ですが。
自分のやりたいこととアクセスが急上昇しそうなことがあっていれば、全然楽しんでやれると思いますけどね。
バズを狙うのはそれはそれでゲーム感覚で面白いのかなと思います。
話変わって。
そうして、少しだけマーケティングの本を読んだりもしてから「質が高ければ売れる」は違ったんだなぁと思うようになりました。
いいもの作っていれば売れるのは、それに宣伝力がついていればの話。
— よこたんのメモ帳 (@utautai_soprano) June 2, 2017
結局は、物を介した人とのコミュニケーション。
あらゆるものはコミュニケーションのツールでしかない。人を幸せにするためのツールなのだ。
誰かから伝染するかも知れないけれど、まず知ってもらえなければ始まらない。
超~いい歌歌う人がいても、そもそも一人でこもって歌っていたら誰もその人の歌なんて知らないんですよね。
それに、その人がいい歌を歌うということに気がつける人が身近にいなければ、その人の歌は広まらない。
その人が歌うことを応援してくれる人がいなければその人が「歌の道」に進むことは出来ない。
その人がいい歌を歌っているよ~って紹介・拡散してくれる人がいるからやっと認知されていく。
たとえ磨いたら超輝く原石があっても、原石に気がつく人がいなければただの石のままなんですよね。
↓これ面白いんですけど…
一人で黙々とやっていたことにどんどん人が集まってくるんですけど、これ、なんでもそうなんだなぁと。
この人がもし、完全個室で踊っていても人は集まらないんですよね。
今、こうやって一人一人がメディアを持つ時代の前は、多くの人が個室にいたんだと思うんです。
今まではライバルにすらなり得なかった一個人のライブ動画がテレビと競い合う時代。
既得権益を持っている側は面白くないでしょうが、でもこれってやはりすごいことだなぁと思います。
風通し良くなったなぁと。
親に理解されなかった…とか、お金がなかった…とか、様々な事情で音楽の道を諦めていく人もたくさんいるけれど、なんだかんだ今の時代、自分で色々なことが出来るようになってきたって、いいことだなぁと私は思います。
玉石混交とも言われますが、そもそも発信すらろくに出来なかった、生前は誰にも見向きもされずに死んでいったアーティスト達を思えば遥かに良い。
発信するのに資格もいらず。
いいと思う人が増えるきっかけになるかもしれません。
もちろん黎明期は過ぎましたし、ちょっと書けばすぐに見てもらえる時代ではもうありませんが…(10数年前、ホームページを担当していた時はそりゃもう簡単に検索上位を狙えました)。
芸能人気取りとか、たいしたこともない奴が、とか言う人も中にはいますけどね。
どこの馬の骨ともわからん無名の人間が発信するのも面白いじゃないかと、個人的には思います。
以下、自分個人の人生で思ったこと。
親に反対されつつ、周りの先生方のボランティア精神に支えられたからこそ勉強をすることが出来た自分はめちゃくちゃラッキーでしたが、「ちゃんと後進の人たちに返してあげなさい」と言われつつも3回も出産しているうちにここまで来てしまいまいました(^^;;
「女がキャリアを目指すならこうすべき」とかに完全に反して、超、マイペースです。
でも、マイペースなりにも、ご厚意に甘えてここまで育てて貰っておきながらこのままでは終われない…と、責任を感じていたりもして。…末子が重度障害だった段階で既に「ごめんなさい」は言いましたが、でも今の時代だから何か出来るだろうと思っていたりもするのです。
期待感。…と、ちょっとの?申しわけ無さで。
今こうして、パワーを発揮する肩書とかが無い状態から活動を継続していることを発信することも、学閥やコネが結構ある業界で「こういうのもありなんじゃないか?」を伝えるひとつの手段なのかなと感じてます。
昔、「あなたが声楽をやっている(と自称すること)なんて認めない」というニュアンスのことを言われたこともありますし、「この曲を歌える程学んできてるとは思えない」と言われることもありました(実力というよりも肩書き的に)。
全ての人がそういうことを言うわけではないにせよ、多少なりともそういう傾向があるのは事実なのかなと思います。
表現活動は自由だと思いますが、ポップスなどよりもラベリングが出来てしまうがゆえに、ラベルの無い人間を脱価値化したい人はいるのかなと。
でも、自分は、自分自身は特別でもなんでもないただの一個の人間ですが、自分が先生方から教えてもらってきたことの数々にはとても価値があると思っていますし、それは絶対に否定したくないので、これからはもう「お前がやってることなんて!」という言葉には耳を貸しません。
自分を多少なりとも信用して多大なる労力をかけてくれたことへの感謝を忘れず、他人の冒涜ももう許しません。
非力でとにかく不自由だった自分がここまで出したいと思っていた音を出せるようになってきたことや、時折音楽と繋がることが出来るようになってきたことも、信じようと思います。
一人では決して出来なかったから。
何ごとも。
長い間、自分のことを「自分なんかが」ってバカにしてたんですが、自分のことバカにしてるって、自分のことを信じてくれる人の愛も受け取ってないんだなぁ…って気がついたら、自分、ろくでもないな!って思いました。
「受け取るに値しない自分」で居続けて、そこにあるものを受け取らない。
もう先方は出しているのに!
そして、「お前なんかが!」っていう人のばかり受け取る。
「それが自分に相応しい」と自分で思ってるから。
ちゃんと受け取れよ自分。と。
っていうか、もう受け取ってるよ?と。
満たされないと与えられない。
満たされてないのに「与えなきゃ」じゃ、与えられない。
いや、「満たされていることに気がついていないと、与えられない」…かもしれないですね。
人の言うことにいちいち反応して、与える側にも今ひとつなれなかった自分は、根本的に見えていなかったんだろうなぁと思います。
別に他人は、「自分が自分のことをどう思っているのか?」を思い出させてくれていただけなのに。
なんだか最近、痛いほどの愛情を思い出して、「ごめんなさい」と「ありがとう」をおもいます。
…思い出でも、たまに本当に痛かったけど(笑)
人を育てる才能ってあるよなぁ。
— よこたんのメモ帳 (@utautai_soprano) June 3, 2017
種も仕掛けも、弟子がわかるように、わかるまで教えてくれる。
こんなふうに人を育てられたら格好いいなぁとか思ってたけども、全っ然足元にも及ばない。
なーんであんなに説明出来るんだろ。そして、なんであんなに全部初見で伴奏弾けるんだろ…( ´Д`)はぁ。
自分の歌う歌曲の伴奏を弾いていて、弾けなくて、身悶えしていたこないだでした(笑)。
長いね。
とりとめもなく感じたことを。