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プロになる夢を
胸に抱きつつも
ドラフトとは無縁のまま、
きのうも素振りをし、走り、
ひとり黙々と汗を流した若者が
きっとどこかにいるだろう。
カメラの放列と
まぶしい照明のある道だけが、
夢の扉に通じている
わけではない。
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2012年の写真。
昔の私は思わず撮ってしまったんだな。
プロになる夢を胸に抱きつつも、スタンダードコースに乗れるような財力も無いところから歩いてきたので、こういうフレーズがぐっときて。
「日本でやっていくなら藝大か院を出ておいたほうがいい」と、20代も後半に差し掛かろうという時に師匠に言われたけれど、結局受けもせず(^^;;;
…いや、なにげに勉強してたし、受けようかとも思ってたんだけども…。
でも、子どもの欠席率の高さや私の病気や…と色々とあり、断念。
まぁ…でも、結局私は「大学名よりも誰に師事するかの方がはるかに重要だ」と考える人間なので、肩書き欲しさに「この人に教わりたい!」とも思ってない人のレッスンに莫大な金と労力と貴重な時間をかけるのも癪だ…とか内心思ってたりしたから色々と「事情」が出来たのかもしれないw
(アドラー的なモノの見方)
昔、師匠に「鼻っ柱の強い女」とか言われて心外だったけども…。
こうして自分の考えを読み直すと、本当、クソ生意気なオンナでございます(笑)
生意気ばんざーいヽ(=´▽`=)ノ
肩書き社会。
思うに、(声楽だと)まだ全然プロとして使い物にならないような時代の肩書きである大学名に、それなりにモノを言う力がある時点で…以下省略。
…ということだと思うので(どういうことだよ)、そういう前提なら「その前提に乗っかること」はしなくていいかなと思ったり。
そもそも、「一人の人間 と 一人の人間」…として対峙する時に、「私はこんなに価値のある存在なんですよ」みたいな説明をしてくるやつが、私は好きじゃない。
一人ひとりに、感じ取る自由、考える自由、判断する自由がある。
それを、最初から売り込まれると、押し付けがましく感じて「いや、しらねーし。お前がどういう人間だと思うのかは私の自由だろ」っていう気になる。
奏者と聴衆の間に何らかの感覚的な動きが起こる、音楽として成立する演奏を目指したいけれど、お客さんの反応は「結果」だ。
結局出来ることは、己の美意識を磨き、ただひたすら自分をその美に向けて磨いていくだけ。
道のりは本当、果てしなく長い。
…出身大学を重視するということは、18歳時点での途中経過を重視するということ。
才能や環境によってスタートダッシュはあるだろうけれど、18やそこらで解を出すには早すぎるのではないかと私は思う。
自身について言えば、30代前半の今になってようやく「少ーしだけ」歌えるようになったなぁ…と思うくらいだ。
あえてそういった人生初期の肩書きを重視することによって会員制クラブのような超富裕層のみで成立する世界にしたい人もいるのかもしれないけれどね。
いつも、道半ば。
動画とかをあげているからさぞかし自信のある奴に思われているかもしれないけれど、自分の演奏に納得したり満足しているからあげているわけでは決して無い。
常に、ダメ出しする箇所なんて腐るほどある。
ゴミみたいな演奏もたくさんしてきた。
低評価だらけだけれど、自分の拙さなんてわざわざ言われなくてもわかっているのだ。
ましてや昔の映像は、やはり今よりも確実に下手くそだ。
でも、下手くそだなと思いつつ、それが糧にもなるのだ。
自分が納得するまで人に出さなかったら、きっと何もしないで死ぬと思うから、あえて晒す。
未熟者には演奏する資格すらないという雰囲気のクラシック。
そんな雰囲気が嫌いだ。
だから、反抗。