私の歌は自己満足

2018-05-10 10:44:00

※かなり個人的な自分の話です。(長いよ)

 

お休みの間、帰属意識について、とか、内的価値※について、とか、外的価値※について…とかよく考えていた。

※内的価値…自分が価値を認めているもの(お気に入り・好きとか)

※外的価値…社会的に価値があるとされているもの(ブランドとか権威的なものとか)

 

私は思春期前期まで転勤族育ちだった。

クラス替えのタイミング的にも、一年以上同じメンバーのコミュニティで過ごしたのは小6が初。

たぶんそういう理由で、帰属意識が発育不全だ。

 

…というのはけっこう前に自覚していたのだけど。

それに伴い「外的価値」に対する感覚もどこかズレているのかもしれないな、と思った。

内的価値と外的価値が、たぶん人よりうまくリンクしてない。

 

基本的に「よそ者」として生きてきて、所属出来ずにいる状態が普通だったので、内的価値を重視する傾向が強い…けれども、父親や周囲の大人の「これくらい当然」がプレッシャーだったので、ちょっと歪んでいる(人のせい…w)。

たぶん大人になる過程で、内的価値と外的価値をうまくリンクさせていって「ここに所属したい」とかいう能動的な欲求が芽生えていくのだろうと思うのだけれど、そういう欲求がいまひとつよくわからない。

自分が社会に所属しているという感覚自体が欠けているので、所属している自分をイメージ出来ない。

 

「所属」について人はかなり強い関心を持っているようだ…とは中高生の頃の周りの子達の様子から感じつつ、正直、そのあたりの「感覚」がよくわからなかった。

そういう感覚を持っている前提で私をみると本当、周囲の大人からみて私は随分と怠惰に見えたようだった。

ろくすっぽ勉強しない私のことを「バカか!」と父親は言っていたけれど、今はわかる。

「外的価値」に向かって努力して手を伸ばそうとしない自分は、きっと愚かにうつったんだろう。

母親にも「好きなことしかしない」と言われていた。

 

昔、うまくコネクションを作って業界でやっていこうという姿勢をとらない私に「根無し草になってしまうよ?」と指揮者の先生に心配されたけれど、そもそもそういう感覚自体が欠けていた。

「お先にどうぞじゃないんだよ!」と師匠に言われたことがあったけれど、そもそも「所属している感覚」を持っていない人間には戦う理由もない。

 

仲間と部外者を分けなければ?

モノとモノの間に線を引かなければ?

線を引いて所有者を決めたり、上とか下とか決めたり、勝ちとか負けとかをつくらなければ、戦う理由はあまり生まれない。

 

既存の集団に「異物」が入れば波風が立った。

「転入生のくせに生意気」とか「偉そう」とか、色々言われてきた。

いじめにも遭ったし、でも一方で、卒業の際一人一人に贈る色紙に校長先生より「白眉」というおそれ多い言葉をいただいたりもした。

私は私でしかないけれど、当時はよく認識できなかった「縄張り」のようなものをめぐって随分と面倒な目にも遭った。

 

トラブルの相談をしても、母親には「アンタって本当に人の気持ちがわからないのねー(呆)」と言われていたので、私はてっきり私自身が人の気持ちのわからないどうしようもない奴なんだと思っていたけれど、今は、それは育ちで致し方なく育たなかった感覚に起因するのだと理解できる。

 

「お前は仲間じゃない」という扱いが悲しかったはずなのに、いつのまにか慣れてしまったのか、はたまた諦めたのか。

叶わない望みを抑圧して無視しているのか。

線を引かれて、「お前は仲間じゃない。」という扱いを受けると、「あぁ、そうだね。私は仲間じゃない。」と言いながら、なんだか心がひんやりと冷たくなる。

その線は必要なのか?

その線は、人を幸せにするものなのか?

外側に引かれた線によって、人が人じゃなくなる。

外的価値でばかり人をみて、その人の内的価値を蔑ろにする人が好きじゃない。

線で区切られて「価値」を付与されたそれに、本当に価値はあるのか?

 

私がやっていることはきっと自己満足なんだと思う。

名もない。

ありがたいラベルもない。

技術も中途半端だ。

やりたいからやっているだけで、「社会的な価値」などもともと存在しない。

クラシックなんてそれこそ、もともと「外的価値の音楽」なのに。

 

私がやっているのはたぶんクラシックでは無いのだろう。

私の中ではやらずにはいられないこととしての価値はあっても、私の外にはなんの価値もない。

誰かの中に何らかの価値が見出だされた時にのみ存在しうる価値だ。

そういう、どうしようもなく不確かなもの。

だけれども、誰かの内的価値として存在できた時、それは宝物のようにきらきらすることもある。

 

 

昔、合唱でホスピスに歌いに行ったことがあった。

決して上手くない。

けれどもそこに存在した「時」は、今もずーっとキラキラしている。

そこには音楽を介して、人の心と心が共鳴する瞬間が確かにあった。

上手くなくても、確かにそれには価値があったんだ。

 

価値は絶対的なものじゃない。

人の心も絶対的なものじゃないように。

ならば自己満足でもいいじゃないかと。

内的価値を高め続けて、贅の限りを尽くした自己満足。

 

どこか欠けていて、世間的には不器用にしか生きられないこともまた、きっと異なる幸せへの手がかりだったりもするのだ。

 

中学生の頃から、混乱の多かった自分の心を整理するのにものを書く習慣がついた。

オフラインだったけど。

それから、匿名オンライン。実名オンライン。

 

うまく所属できない「一人」だった自分の時間の使い方。その延長線上に今がある。

そしてそれが縁を生んだりもして。

 

不思議だなと思う。

とりとめもなく。

最近の雑感。

 

読んでくれた人、どうもありがとう。

長文お疲れ様でしたm(_ _)m

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