裏側にあるもの

2018-04-16 07:43:06

自分の優秀さや正しさを証明しようと、他者のことをディスる人が好きじゃない。

…のは、なんでだろうなぁ?って思ったら、今まで関わってきて辟易とした人に似ているからか!と思った。

そして、「その手の人達」の他の言動を芋づる式に思い出して、勝手に私がその人にまで過去の人の性質を投影して不快になっているのだなぁと。

だいたいそういう人は、その人自身が自己愛に傷つきを抱えていたり、あるいは自分自身ときちんと向き合う心の発達がきちんと遂げられていなかったりする。

都合の悪い記憶は消えてしまい、 会話が歪められて成立しない。(国会中継のように・爆)
感情的な言動で周りの人間に特別な取りはからいを求め、「責任」に関する心の機能が停止している。
幼稚園生でもここまでひどくないんじゃないか?ってたまに思うのだが、知恵がついているぶん人をコントロールする術に長けていたりもする。

人格形成の基礎的な段階でトラウマを抱えてしまい、既に改善される見込みが無い人もいる一方で、ある程度の人格的な基盤が出来上がってからのトラウマ体験であったりすると、そういった自己愛傾向がありながらも適切な対応次第で自分を直視することも可能なようだ。

…そういう莫大な調整コストがかかる人間も、本人が望んでそうなったのではなく、「責任を負う」という能力を発達させる機会をことごとく奪うような生育環境にあったから…だったり、家族をはじめとして著しく不健全な人間関係の中に拘束されていたかららしいが。

でも思うに、そもそも教育の段階で日本は自分で選択してその結果を引き受けるという体験が乏しいのかなと思う。
無責任になってしまう基盤があるのかなと。

一対大勢の授業スタイルで、上の言うことを聞くというのもそうだけど、同調圧力然り、自分が選んでいるという感覚すら無いのかなと。

戦争で負ければ、やれやれー!と言っていた自分等のことは棚にあげて「責任」を誰かに擦り付ける根性に国民性がよく出ていると思う。

「もう二度とこんな過ちを繰り返してはならない」と一人一人が思うのではなくて、「あいつのせいでこうなった」と。

自分で選んでいても計画通りにはいかなかったり、病気になったり事故に遭うこともあるから、全部を自分で処理できるなんて思ってないし、それこそ傲慢だけれども。

自分には選択する自由があるという感覚と、自分にはその選択に向かって進んでいく力があるという感覚が希薄なのかなと。
人権を勝ち取った歴史の無いお国柄なのか、そういう自己信頼感が足りない気がする。

そして、自己信頼感のなさから、依存的になったり、無責任になったりしてしまうのかなと。

そういう「自分が無い」状態では、常に自分以外の評価などに振り回されることになる。

優越欲求に振り回され、人をディスって自分が優れていることを周囲にことさらに唱える心理的な必要性(飢餓感)がある人間は既に、その人自身が自分を信頼しておらず不安なのではないか。

日本人は討論が苦手だというけれど、討論できるような基盤が無いのかなと思う。
依存的・無責任な姿勢では、物事を筋道立てて説明し、相手に納得をさせるのは難しい。

せめてそういったことが出来る人間同士で話が出来ればまだマシだが、証拠を揃えて突き詰めても、そのことを受け入れることすら出来ない人間が中継で流れてくるのが現実だ。

新たな武器を手に入れ、いざ相手を倒そうというときに、相手の怯えた表情に気づき手を止め、抱き締めようとする主人公のような…そんな、怯えて吠える人に愛を返せるようになりたいなと思いつつ、自分自身がまだそこまで強くはないけれど。

快も不快も、己を見つめるきっかけになる。
特に不快なものには、それに反応する自分のなにかがあったりする。

なるべくなるべく、心穏やかに過ごせる自分になりたいなー。

長々と雑感。

↓ソーシャルメディアで共有する↓