自分の心の声をきくこと

2018-05-18 13:21:06

 

~しなきゃ!
とか
~じゃなきゃダメだ!
とか

 

そういうことばかり思っていると、「この人ならやってくれる」とか周囲にも思われたりして、そういう「自分の外からきたもの」で自分が埋まっていく現実がどんどん集まってくる。

難易度があがっていって、プレイヤーが谷に落ちるまで終わらない。
テテッテ テテテテ~♪(←落ちちゃった時の効果音byマリオ)

 

私たちは自分以外の誰かに従わなければならないかのように教育されているところがある。
それは目上だけでなくて、同調圧力もそう。
そして賞罰教育が標準であり、本人が望んだか望まなかったに関わらず、外側の基準でジャッジされる。

 

これは快か不快か?
という自分の感覚じゃないところで、良いことと悪いこと、価値のあることと無いことが「決められている」。

 

誰かが、
「外国人はものさしが自分の中にあるけど、日本人はものさしが自分の外にある。」
と表現していた。

 

すごくわかりやすいなと思う。
(私自身は外国について詳しくないんだけども・爆)

 

自分は何が好きで何が嫌いで、どうなりたいのか。
どうなりたいのか。
「なれるのか(可能か不可能か)」ではなくて。
そういう、期待感を持ちながら取り組む姿勢が好きだ。

 

私は、年齢を重ねてから何かを学び始めたり、大学に通い直したりするような、そんな生き方をしている人が好きだ。
す、好きだ…!!!(*ノェノ)やべー告っちゃったわw

 

チャレンジすることを「やめておけ」という人がいる。
戦う君のことを戦わない誰かが笑うだろう♪もそうだけれど、いわゆるドリームキラー。
その人の「当り前」の基準に当てはまらない人を認めない。

 

昔、大学で音楽を学んでいることについて、「環境が恵まれていただけでずるい」ということ言われたことがあった(間接的にだけども)。
「ピアノ習っていたから入れただけ」「大学が音楽系なだけで贔屓されてる」みたいな(爆)。

 

(…ちなみに、私はジュニア専門コースにいたわけでもないし、そもそも全国各地を転々としていたから先生も変わりまくっていたし、受験を意識するまではむしろあまりきちんとした教育は受けていない。
そこまでのめり込んでいない頃に、「これくらい当然でしょ」タイプの先生にあたって、一度、辞めている。)

 

音大に行きたかったらしい彼女について、私は「行きたければいけばいいのに。」と専門家の前で発言したことがあった。
「あの子はアマチュアの子」という認識でいたその方にとって、私のこういう発言は無責任にみえたようで、「(何いってんの?)」っていう表情でみられた。

 

…でも、ずっと「本当はやりたかったのに」というくすぶった気持ちを持ち続けたまま、全力投球すらせず、周囲の人間と自分を比較しては自分の中の毒を処理しきれずにに周りに毒を振りまいている人は、とても幸せそうにはみえなかった。

 

私は全然適性が無いのに剣道部に入ったけれど、高校でも入部してしまったことは後悔しつつも(もともと運動出来る人たちしか続けてないw)、でも、ずーっと「自分は運動が出来ない」&「バカにされるし運動はつまらないもの」と抱いていたイメージは変わった。
適性がなくても、真面目にコツコツやればプレイするくらいは出来るのだということも学んだし、身体を動かすこと自体は楽しいんだということも学んだ。
剣道は昇段審査というものがあって、それもとても励みになったなと思う。
勝つとか負けるとかよりも、それぞれが目標を持ってのぞめるものがあってよかった。

 

チャレンジしてみれば、こなさなければならない大量の課題に、嫌でも自分の力量は思い知る。
剣道は本当、肉体的にしんどかったし、パフォーマンスを向上させることが難しかった。
自分の適性について身をもって知ることになった。

 

多少は適性があった音楽ですら、訓練してきた量が周囲よりも明らかに劣っていた大学1年の時の私は、「音楽が音学になって音が苦になる…」とか雑記帳に書いていた(笑)

 

でも、結構よくやったんじゃないかなと思えるくらいやったら、意外にスッキリするんじゃないかなと。
そして、そう感じられる頃にはすでに自分の手中に宝物があったりするんじゃないかなと。
それは、外側からのジャッジを前提にしない宝物で、でもちゃんと磨き上げた輝きを持っていたりするんじゃないかなと。

 

自分じゃない何かに「認められたい」とかっていう願望は実は本当の願望じゃなくて、本当は好きに生きていることを自身が肯定して生きたいんじゃないかなと私は思っている。

 

「私は○○に認められた!」とか訴えている人で幸せそうな人って殆どみない(宣伝効果などを狙って書いたりすることは心理的な問題に由来するものではないけれど)。

好きに生きていると…いや、好きに生きているだけで様々な評価に晒されて、競争に巻き込まれて、そんな中で芽生えてしまった罪悪感や義務感や劣等感に翻弄されて、「認められたら許してもらえる」みたいに勘違いしてしまう気がする。
でもそれってきっと、勘違いなんじゃないかな?って。

 

そのもやもやした感情は、真実なのか?って。
そのもやもやした感情を「払拭するための行動」は、本当の幸せに向かっているのかな?って。

いや、そのもやもやした感情の正体って、実は光をあてたら消えてしまうものだったりするんじゃないかな?って。

もう許されているんだよ、きっと。

 

なんて。

数年前まで、「免罪符」が欲しくて頑張っていた私ですが…。
生きていることはありがたいことだというのを痛感する出来事があると、今まで見えていた世界が変わるものです。

 

…まだ時折、人の毒を浴びると古傷が傷んだりすることもあるけれど。

 

たまには一人で贅沢して…。
ぼーっとしていると、じんわり「私、超幸せじゃーん♪」って思ったりするのです。

オランダ屋のケーキにハマってるの最近(*´∀`*)♪

人は幸せになりたい。
「快」を感じたい。
なるべく「不快」を避けたい。

食事。
睡眠。
愛する人と触れ合うこと。

すべてに快楽がある。
でも、ずーっとそれをし続けろといわれると途端に不快になる。

なぜか、「幸せ」にはやたらと条件があるかのように偉い人は言うんだけれども、幸せはとっても曖昧なもの。

止まった心臓のような直線ではない。
生きているから、幸せなんだ。
波があるから、幸せなんだ。

だからきっと、
自分の不快感を味わい尽くすこともまた、幸せに繋がっているんだと思う。

今日もとりとめもなく長々と…。

ケーキ美味しかった♪ヽ(=´▽`=)ノ

おしまい。

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