中学の頃の同級生のブログを数年ぶりに読んだ。
発言を選ぶ必要があるSNSではなくブログに書きます、ということで、いくらか突っ込んだ発信をしていた。
そもそも読んだきっかけも彼女のSNSの発言にどこか違和感があったから、「(そういえばブログ書いてたような…)」と思い出したからなんだけども。
人生色々。
更新頻度は高くないにせよ、10年以上にわたって更新していた。
ちゃんと自分の足跡を残しているんだなぁと思って、自分自身も、その時感じたことをもっと残していてもいいのかなと感じた。
―10年位前、「自分の印象が悪くなるようなことは書かない方がいい」と言われたことがあって、そうなのかな…と思ったりしていたけれど、私は少なくとも彼女の生い立ちやフェミニズム的な記事や選択(かなりハイリスクな選択)について、大変だなとは思うけれど別に悪印象ではなくて。
「自分の印象が悪くなるようなこと」というのは”立ち回りとして”なのだと思う。けれど、私はそういうのは向いてないし、もう疲れてしまった。そして自分と相性の悪い人に合わせなくていいのでは?と。
10年以上前、私は発信しないと信用を得ることが難しいところにいたから発信していた。
けれど、書くたびに仄めかしでディスってくる人※がいて、重度障害児の親になって医療ケアやら通院関係の予定や救急対応でキャリアもへったくれもない生活へと激変し、正直世界が灰色の時期を過ごしながらそれでもせめてネット上でだけは何かしよう…と思って発信していた折、その人が障害児育児について(子供もいないのに)「これくらいのことで~」みたいなことを書いているのを読んだ時に私の中で何かがぷつんと切れてしまった。
※私が動画を投稿するなり何らかの発信をすると「これが歌える人なんていくらでもいる」とか「高い音が出るだけで正しいテクニックとは限らない」などと書き、私が自主企画のコンサートのことを書けば「人に呼ばれないから自分で企画してまで歌うなんてw」みたいなことを書く感じ。こういうのが執拗に続いていた。
当時ブログ村というコミュニティに登録していて、他のブロガーの何人かもこの悪意ある仄めかしに気づいていてフォローしてくださる方もいたのだけれど、意地も含めた「やり遂げたいこと」&「楽しいこと」と「嫌なこと」の天秤のバランスが崩れてしまったら、そこからなんだか色々面倒くさくなっていった。
…また、こういうディスりやマウントやハラスメントは音楽をやっているとやたらとつきもので、こういう不快感を味わいながらやれるほど元気ではなかった。
以前これにも書いたけど
https://utaouka.com/2025/06/18/hansei/
そういうモチベーションが下がってきてた時にハラスメントに対する業界の一般的な反応を目にし、音楽系の発信を止めた。
少なくともその時点では「関わりたくない」が自分の中で大きくなり過ぎた。
音楽系では発言少なめに静かに過ごした数年。
他界隈で色々な人の発信に触れたり交流する中で、自分自身が「影響を受けたくない人物からの影響を受けて自分を殺している」ことに気がついて、あの人たちの思う通りになるなんてなんて勿体ないのだろうと思うようになった。
そうやって40年、生き方にどこか妥協してきたのではないか?と。
無視されること、根も葉もない噂を流されて迫害されること、自分の可能性を否定されて嘲笑されること、言動や物を介してあからさまな悪意をぶつけられること。
こういうことはストレスだけども、これらは私のせいではなかったなと今はわかるようになった。
もういい歳だしね。
ブスだと言われたからブスだと思い込み。
才能無いと言われたから才能無いと思い込み。
勘違いするなと言われたから勘違いしちゃいけないと思い込み。
根も葉もない噂を信じて人格を否定されるくらい信用されてない自分自身を呪った。
でも時を経てこういう相手の言動は全て、相手の願望に過ぎないのだと理解した。
私はブスではなかったし、才能が無いわけでもなかった。そして私を信用してくれる人もちゃんといた。
今、自分が家庭を持って、家の中に冷たい空気や変な緊張感が張り詰めていない、笑顔がいっぱいの家庭を築けている時点で私はきっと大したものなのでは?と思っている。
思うようになった。
先日、訪看さんとの話で「「〇〇さんちは本当にいいよ」って言われてからきて、すぐにその意味が分かった」と言っていただけた。幸せな空気感は伝わるらしい。
私は自分が欲しかったものをちゃんと築きあげることができているんだなと。
若い時分、師匠に「自分で自分の可能性を潰している」と言われたけれど、自分の可能性をちゃんと健全に生かせるのは心と身体の健康があって初めて成立するものだと思う。
研究生だった当時(20代)の私は10年以上に及ぶガスライティング(※wiki)の影響を強く受けた状態にあって(というかその影響がやっと抜けていったのが35歳くらいを過ぎてから)、客観性が無ければできないテクニックができた時だったかな?「客観性あるんだ…」と呟かれたのが印象に残っているけれど、実際当時は自己認識が歪んでいた。
手間暇をかけていただいたわりに現時点ではご期待に沿えない成果しかあげられていないことについての申し訳なさはありつつ、でも私は私でこういう虐待やハラスメントに関する知識も深めた上でまた音楽をやろうと思えるようになった。
教育業界・音楽業界に蔓延しているハラスメント体質はたぶんだけど、多くの才能を潰していると思う。「これくらいのことに耐えられないくらいなら」?という空気感は若い頃に嫌と言うほど味わったし、人権意識どうなってんの?というものをよく見聞きしたので、こういう空気がものすごく嫌だった私は堂々と「嫌だ」と言い続けながらこれから生きていく。
そういうのはたぶん「自分の印象が悪くなる」とか気にしてたらあんまりできないのだと思う。
ある人にしてみたら、私の印象は(その人自身の内面的な問題のせいで)元々とても悪いのだから、もうどうでもいい。
というか、どうでもいい人に合わせて生きるほどもうエネルギーが余っていない。
末子も10歳。殆ど看護やら介護やらで10年過ぎたけれど、”限りがある”からこそ自分が大切にしたいものを大切にして生きていけると思う。
 
  
  
  
  
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