訃報から

雑感

鳥山明先生が亡くなったというニュースに、ついつい色々と皆様の反応を読んでしまう。
ドラゴンボールもクロノトリガーも、自分に大きな影響を与えた作品だったので。

人様の感じたことを読んで振り返っていると、「あぁ、そっか。そうだったな。」と、子どもの頃には持っていなかった視点を持てるようになっている自分自身にも気づく。
自分も年を取ったのだな。

知らなかったのだけれど、鳥山明先生はお誕生日が4月5日だった。
一日違い。

 

来月は誕生日。
両親、義理両親の老いや健康状態を見ていれば、嫌でも自分の年齢についても考える。人の一生って短いね。
少し焦りを感じるテンションでリクエストされながらも、まさにコロナに医療トラブルにと全く余裕が無く、終息宣言が出てからでいいかな…と思っていたコンサートも、企画すらしないまま、緩和ケアの話を聞くようになってしまった。

後悔が無いように生きなければ。
後悔が無いように生きたい。

今年度はしかし、余裕が無さ過ぎた。
7月はカテーテル破損(カテーテル破損=点滴できない=脱水のリスク&栄養不足)&修理。
9月は旦那がコロナ。
10月はカテーテル再び破損、次女が高熱、長男も高熱からのルート感染疑いで入院、破損したブロビアックカテーテルを交換する手術。なんやかんやで2週間くらい入院したかな?
年明けて2月は長男がコロナ&私もコロナ。
3月は次女がインフル→長男→長女…と。私は看護者なのでタミフルを予防投与してたので咳だけ…ではあるが。

こういうトラブルを、在宅で点滴や注射などの医療ケアをしながら、起立性調節障害の長女のケアもしながらまわしている状況。

普通ひとつでも大変!大変!ってなるのに、よくもまぁ、これで通常の家事に習い事の送迎もピアノの宿題の面倒も、自分の練習も大学の課題も(鈍足だが)やってるわなと自分でも思う。
…まぁ、やならなきゃならないことだけで一日一日が終わるとそれこそ心の方が死んで希死念慮が出てくるので意地でも「自分自身の時間」を感じられることをやるんだけどね。

自分のため。
ピアノを今さら?基礎練習するのも、自分のため。
年明けから一日も弾かない日がない状態を死守するのも、自分のため。

習慣が自分を作るのを知ってるから。
でも、習慣はケア労働の過酷さを理由にして休むとあっという間に崩れてできなくなるのももうわかったから。そしてそうなったときにすり減って何もなくなった自分を嫌だなと思うのもわかったから。

それだけしていればいいような特権階級にはいないが、10分の習慣が私自身のためになるから大切にするのだ。

後悔しないために。

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